2008年 09月 05日
古代日本史認識の誤り-国家観の欠如 |
「中韓を知りすぎた男」というよく読まれているブログがある。このブロガーは、国家観がないと嘆いているが、日本という国の成り立ちについていつも出鱈目を書いている。
現代日本人の国家観のなさは,この知りすぎた男さんのように,日本古代史に関する知識が欠如しているからだと思う。
まず,日本文化には,シベリアからマンモスを追って来た人々の縄文一万年の通奏低音が基調にある。日本語の形成とともにBC500年頃、大陸から鉄器稲作が渡来。しかし、渡来人は漸次、到来したので同化し、大陸とは異なる言語が維持された。古代日本は,現代の日本よりも国家観が強く,2世紀ごろから100メートルを超える巨大な古墳を連綿と作り続け,軍隊を朝鮮半島に送り,3世紀には朝鮮半島南部に植民地(任那,伽耶)を経営していた。このことは,日本書紀のみならず、中国の歴史書にも韓国の歴史書にも書かれているので、否定しようが無いが,戦後,左翼の学者は戦前の史観であるとし,伝説にすぎないと否定していた。しかし,1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が日本式の前方後円墳でありるとして紹介されて以来,相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳及び日本製の棺の発見や新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)している日本製ヒスイ製勾玉などを踏まえ,今日では事実視されている。
高句麗広開土王の碑文には,辛卯年(391年)日本が海を渡って数万の軍隊を送り、百済,新羅を臣下としたと書かれており,これも最近,中国の学者の研究により帝国陸軍による改ざん説は否定された。高句麗の碑文については日本の満州制圧以前の古い拓本が中国の学者により発見(2005.6.23)されたからだ。
要するに,知りすぎた男さんが言うように,7世紀の唐の勃興により日本という国家が成り立ったということはあり得ない。だいたい,唐の前の王朝の隋の歴史書「隋書」に「百済,新羅は日本(倭)に制圧され,先進技術を持ち産物の豊かで大国である日本(倭)をみな敬い,ひれ伏して常に使節を送って交流している。」と書かれているし,百済は王子などを人質に日本に送っている。
9世紀に遣唐使を止めたのは,菅原道真の提言で,日本の方が先進国になり,学ぶ物が全く無かったからだ。その証拠に,絵も彫刻も建築も文学も,ドナルド・キーンが言うように,9世紀以降,日本にあるような芸術性の高い物は中国にはない。中国の仏像や絵画はへちゃむくれである。ただ,戦乱が多かったために陶器などに希少価値はある。
日本国家の初期の歴史を知らない日本人にまともな国家観はありようがない。
【最近の韓国内での日本式前方後円墳の発見ニュース】(2005-06-22、SBS放送)
動画→http://mplay.sbs.co.kr/news/newsVideoPlayer.jsp?url=mms://newsvod.sbs.co.kr/nw/0121/nw0121c086038.asf&news_id=N0311768776&fname=nw0121c086038&channel=null
アナウンサーのコメント
5~6世紀に作られたことに推定されるこの木棺は韓半島で尋ねにくいくすのきで作ったうえに古代日本で主に使った様式なので日本から渡って来た可能性が申し立てられています.
石室では高麗大学の研究者により、日本の墳墓で主に発見される赤い染料も確認されました.
○発掘に携わっていた研究員の一人が、「日本が古代にも朝鮮を植民地支配していたのなら、謝罪と補償を要求するべきだ!」と叫んでいたのが印象的であった。
【高句麗広開土王碑】
2005年6月23日に帝国陸軍酒匂大尉が作成した拓本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された(読売新聞2006年4月14日) 。これにより、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定し、倭が朝鮮半島に勢力を伸ばしていた事が証明される結果と成った。
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by tokiwater2008
| 2008-09-05 00:22
| 歴史